Where do we go?

今もちょっとした合間に書いてるんですけど、本当に今後更新している暇があるのか…という感じです。自分の時間が欲しいのー!
そういえば明日はウタワラ番宣があるとか?10月1日も通常放送だということで、ほっとしています。子供がぐずっているので。でわ。

追記>
さっき、昨日のエントリ読み返してみたんだけど我ながら酷いね!(苦笑)直そうかと思ったけど、まああわてている様子が分かってこれはこれでいいかと思いなおしました。

今日、某所で池内紀の面白いエッセイを読んだのだ。筆者がふと用事を思い立って席をたったものの、何をするつもりだったのかド忘れしてしまったというところから、話しは逸れていくのだけれど、

(長いので畳む)

たしかフランスの画家ゴーギャンが、タヒチ島に渡ってから描いた絵のタイトルになっていた。人生の謎を要約した三つの問いだという。
「われわれはどこから来たのか。われわれは何ものなのか。われわれはどこへ行くのか」
まさしく、これにあてはまる。さしあたりは微妙な欠落感である。何か一つが欠けている。目的をもってやってきたのに、当の目的が、やにわに消失した。だからこそ問うとしよう。わたしはどこから来たのか?
へんな状況に直面している。意味と意味のあいだの挟間に落ちこんだ。自分がいま、なぜここにいるのか、何をしたいのかわからない。はたしてこのわたしは何ものか?
あるのはこのからだ、この自分。一個の実在と対面している。存在の原形というのは、このような状態をいうのではあるまいか。いつまでも佇んでいるわけにはいかないとすると、わたしはどこへ行くのか?

そういえば
Where do we go? Where do we go? Where do we go now?
などと、Sweet Child O'Mineでアクセル・ローズが歌っていたなぁ。
ひとは誰でも、大なり小なり唐突にこのテの問いに足を掬われてその場に呆然と立ち竦んでしまった経験があるのではないでしょうか。目的を見失った時に、自分が何ものなのか、何のためにここいるのか、何をしたいのか分からなくなって初めて自己と対面する、てことはだよ、敢えてそういう時間も必要だってことか。
人生の謎というからには、年齢を重ねたところで、容易に解決するものでもなさそうです。むしろ年をとるごとに、こんがらがって謎は解きがたくなっていくのかもしれないね。

何が言いたいのかというと、子どもがグズる前に何を書くつもりだったのか忘れたのですわ。なんだっけ〜なんだっけ〜?思い出せん…年?